第三回 「4分33秒」よしもとよしとも


 あけましておめでとうございます。というわけで、さあ、新しい日々のはじまりなのですけれど、その前に昨年を振り返ってちょっと。いやいや、違うな。あ、そうだ。よしもとよしとも2年振りの新作を昨年ようやく読めたというのが、もう、個人的には何よりも嬉しかった。というのが言いたかったんだった。そう、よしもとは僕にとって重要なマンガ家のひとり。とても冴えない十代の頃の僕を支えていてくれたのは、彼の描くマンガの空気だった。そんな空気のなか、呼吸することで何となくでもやってこれた感が、僕にはある。パッとしない日常を無意味だと言い切れないもどかしさのようなものがそこにはあって、僕はどうしようもなくそれに惹き付けられていた。いや、今も強く惹き付けられている。

 初期(「ホワイトアルバム」や「キラキラ!」の頃)の安達哲にも似たようなところがあって、いま生きている時代への共感と違和感を同時に描くことで彼らは、どこにでもありそうな、という意味での“リアリティ”を獲得することができていた。女性マンガ家はファッションや恋愛を取り入れることで“少女”や“女”を描くために、それを速やかに行ってしまっている場合が多い。が、あくまでも男の子がイメージするものをなぞらようとする男性マンガ家がそれをやるには、手法(たとえばモノローグの使い方とか)あるいは読者層(ほら、やっぱり男だったら、破天荒にストーリーが展開して、バアァンって感じのものの方が好きでしょう?何だかんだ言ったって僕だって大好き)の問題もあって、そう容易くはない。だから、緻密な書き込みや事実に則した細かな設定とは別の次元での、つまり時代のムードとイコールである“リアリティ”を描いてみせた彼らのようなマンガ家は希有だし、それゆえに僕は今でもこうしてずっと期待してしまっているんだろう、と思う。

 そして、昨年秋の『コミックキュー』に掲載された、よしもとの「4分33秒」は僕のそうした期待に応えるに充分な作品だった。しかし賛否のあるマンガなんじゃないだろうか。というか、僕の周りでは既にあった。その殆どが、コレはマンガじゃねえんじゃねえか、よくわからん、というものだった。だけど、違うんだよ。そうじゃない。そうやって簡単に切り捨ててしまっていいマンガなんかじゃあない。少なくとも僕にはそれはできない、のである。

 「4分33秒」では、読んでもらえば直ぐさま判るように、従来のマンガにおける表現形式とは全く違ったスタイルがとられている。セオリーからは外れている。まるで挿し絵のように画があり、ちょっと長めの文章が添えてある。文章はモノローグとかそういうんじゃなくて、しかも画と文章は殆ど関連がない。分割されている。かといって僕は、そうした試みを声高に新しいとか革新的だとか言うつもりはない。似たようなことはこれまでにも何人かのマンガ家によって突発的に行われてきているのだから。けれども、ここまでそれが巧くいった例を僕は他に知らない。完成度が決定的に抜きん出ている。ただの実験に終わっていない。紙面に印刷されたひとつひとつがしっかりと機能し、ちゃんと一個の表現を為し得ている。その一点が何よりも素晴らしい。そこだけはもう絶対に、高く評価されなければならない。

 登場人物は3人。その3人の語りだったり、喋りだったり、呟きだったりが文章部分を占める。とはいっても、3人のトークがクロスすることはない。それぞれがそれぞれ、ぜんぜん違う地点で言葉を発している。そして画の方は、おそらく描いた時期が夏だったのだろう、夏の街角などといったどこかで誰もが目にしたことのあるような光景を描写している。作品のなかである者はレイプする手際をまるで自慢のように話している(この描写がキツイという意見もあるが、僕はあえてキワどく語らせたところによしもとのやるせなさを感じる)。ある者は虐待を受けながらも、そこに生じる感情をうまく口に表せないでいる。ある者は何気ない日々を、日記に記すようにこちらに知らせる。それと並行してある日常を示すカット。ハッキリ言って、最初の3ページくらいを読んだところでは、何のこっちゃい、といった感じなのだが、最後のページまで読み切ると鮮明なイメージが頭に浮かび上がる。

 これは、そう、現状を肯定するのでも否定するのでもなく、ただじっと見つめ、そして写生してみせた作品なのである。但しそこには、だけど生きなければならないんだろうな、という諦めがあり、それでも生きて行かなくちゃならないんだよ、という意志みたいなものがある。言い換えれば、僕らがこうして生きている現代と、その向こう側にあるものを「4分33秒」は写している、ということだ。一見無意味に思える(写真でいいんじゃねえか、というような)緻密な画の書き込みも、画の置かれる位置の微妙なバランスも、よくよく眺めてみれば作者の意図するものを読者の側に想起させるための仕掛けとして、まるごと作品に奉仕している。もっと言えば、よしもとは「4分33秒」で物語によってでなくイメージによって、読み手に何かしらかのエモーションを喚起させようとしているのである。

 さきに書いたように、いま生きている時代への共感と違和感を同時に描くことは、ある種の“リアリティ”を描くことと同義である。しかし(情報の氾濫に依ることろが大きいのだろうけれど)多様的な側面のクローズアップばかりを繰り返した結果、どこまでがオーケーでどこからがアウトなのか実のところよく判らなくなってしまい、まるで共感と違和感の飽和状態にあるこの時代の“リアリティ”を、これまでと同じやり方で描ききろうとすることは、もはやどうしようもなく困難なんじゃないだろうか。過去のインタビュー等から判断するに、よしもと自身はマンガの新しい読ませ方という部分に関して、かなり意識的なマンガ家である。だが、それは決して既存のマンガ界をひっくり返してやろうという野心的なものではない(多少、そういうニュアンスはあったとしても)、むしろ自分が描きたいものをどうやったらダイレクトに描けるだろうか、という素朴な一心から発生している。ならば過去のスタイルでは描ききれなくなってしまったものを描ききるために、今ある枠組(従来的なマンガの描かれ方)をいったん取り去ってしまうというのは、実に真っ当な取り組み方なのだと言える。

 それでも、そうして出来上がったものがマンガなのか否かという疑問は残る。多分「青い車」の辺りでとられた方法論を更に押し進めた究極が「4分33秒」なんじゃあないだろうか。しかし、ここまで作品全体のフレームをいじってしまうとなると、読者の側にはどうしてもワン・クッションなりツー・クッションなりが必要な気もする。そこにちょっとばかりの戸惑いを憶える。まあ確かに、よしもとのこれまでの仕事を熱心に追ってきたファンが、ここしばらく(ブランクの間も含めて)雑誌などで彼が発してきたコメントをまとめてみれば、なるほど納得できる内容となっている。が、そういった特権的な読み方がされなければならない(かもしれない)ところにマンガとして致命的な弱さを感じると言うのならば、そうだとも思う。

 しかしである。マンガがただ描き続けられていれば前進し続けるという幸福な時代はもしかしたら終わってしまったのかもしれない。だから例えばよしもとは、それに対するひとつの手だてとして、マンガという表現の内側と外側を徹底的に意識した「4分33秒」のような作品を提示しなければならなかったのだろう。だとしたら、そこにある態度に何とも真摯なものを感じないか。なぜならばそれは、たとえ着地点がどこだろうとも、あくまでもマンガという表現に拘った素晴らしきチャレンジに違いはなく、そして、そうまでして表現しなければならないことがマンガ家の側にあるということだからだ。そういった意味において僕は、よしもとと今回の「4分33秒」に過剰なまでの感情移入をしてしまうのである。

 さて、20世紀の最後になって、そんな意欲作を発表してしまったよしもとだが、しかし、この作品の次の展開を用意するとなると少し難しいんじゃないか。そう考えると、またしばらくブランクに入ってしまいそうな予感だけはする。だったら、その間に結構まだ残ってるはずの過去の作品(「7−12」とか『ヤンマガ』に集中連載されたヤツとか、その他にも色々と)をひとまとめにして、ちょっと前みたいに単行本化してくれないものかしら。