1999年6月


28日(月)

スリーター・キニー

 新宿・ロフトへ、女性3人組スリーター・キニーを見にいく。まず、前座はナンバーガル。評判は知っていたが、聞いたことなかったので、わりと定刻に。あらら、彼らもまた本当にごく普通の外見をの人達。MCも本当に分別ある人だなんだろうなあ、と思わすもの。だが、そんな彼らがああいう直情系のサウンドを出しているのは、本当に興味深かった。歌があんまし聞こえなかったのが残念。わざとじゃないよね(轟音ぶちかましつつ、歌っているフリしている、つーのも面白いけど)。続いて、スリーター・キニー。写真で見る以上に、オールディーズっぽい純な風情。年齢も若く見えた。まず、ちゃんと歌が聞こえるし、魅力的な声質を持っているのに関心。それだけで、ぼくはニッコリ。まあ、タガを外したところで魅力を作りたいといったような意志が伺える曲作りに関してはもう一つだが。でも、実演としては合格点をあげられるのではないだろうか。もっと単純でハジけた曲をやれば大きな支持を集めるかもなー。ところで、ギターを弾いているのに、ベースの音が出てきていたのは不思議。おそらく、エフェクターの恩恵だろうけど。ところで、新装なった新宿・ロフトはこの日が初めて。これが、なんと新宿コマ劇場を挟んで、ちょうどリキッドルームのとい面にあたる風俗ビルの地下。ちゃんとチェック入れたわけではないが、パっと見た感じの印象は悪くなかった。ライヴ見ながらグイグイ飲む人間としては、トイレに行きやすいのは何よりの高ポイントではある。


23日(水)

ディキシー・タンタス

 本コーナー、2度目の登場。場所は渋谷・ネスト。いやあ、良かった。メロディあるし、グルーヴあるし、アイデアあるし、心意気あるし。見事なライヴ・バンド。とにかく、(いろいろな面において)愛が溢れている! この晩のライヴ見て、それを痛感し、だからこそぼくは熱くなれるんだと思った。興奮した。酒もうまかった。やっぱ恥も外聞もなく、彼らのこと応援したいと再確認。これ見た人も、彼らの名前気に留めてくれると嬉しいな。彼らの新作『ニュー・ルーツ』はカッティング・エッジより8月上旬発売の予定。


22日(火)

チャリー・ハンター

ブルーノート・レーベルのコンヴェンションが昼間に青山のブルーノート東京であり、変則ギター弾きのチャーリー・ハンターを見る。八弦(五弦がギターで、三弦がベース)ギターで、ギターとベースを兼ねたことをやっちゃうという人で、その昔マイケル・フランティのザ・ディスポーザブル・ヒーローズ・オブ・ヒップホップリシーに係わっていて、それで来日(93年) したこともある人物。また、ファースト・アルバムをレス・クレイプール(プライマス)にプロデュースしてもらった人物でもある。そんな彼はラサーン・ローランド・カークの哲学を受け継ごうとするとともに、フット・ベース付きオルガンの音をギターで出そうとして、変則ギター(奏法)をするようになったのだとか。酔狂度はなかなか、でも音は少し丹精すぎるところも。コンヴェンションではドラマーとのデュオを3曲、披露。彼は、ジャム・バンド界(6月12日の項で触れてます)の代表選手ギャラクティックのもろミーターズ・タイプのドラマーと一緒のレコードを出していたりもする。「あの〜、ホントにデッド・ヘッズの人達にメデスキ・マーティン&ウッドとかギャラクティックとか、人気あるんですか」「おう、多少はな。確かにそういう流れはある」、とのこと。ところで、彼はギターのケースのポケットになぜかパンデイロを入れている。「なんで?」「だって、打楽器が好きなんだもん」。悪いヤツじゃないのは確か。


21日(月)

徳永憲

 確かなスキルとちょっと変なおとぼけを感じさせるシンガー・ソングライター、徳永憲を渋谷・ネストにて。同所のフライヤー見たら、6月出演者のなかでは彼が一番高いお金を取っているのね。それはともかく、端的に言っちまうと、ぼくはアルバムのほうが好きだと思った。やっぱり、あの普通そうなルックス(でも、仕種とかMCとかなんか綻びあり)と癖ある歌い方がダイレクトに入ってくるライヴは同性にとっては生々しすぎるのかなあ。しかし、彼のようななんの派手さもないフツーっぽい人がちゃんとメジャーのディールを取れることに関しては、世のなか捨てたもんじゃないなともしっかり思った。飄々。なんにせよ、才あるソングライターであるのは実感。ギター弾き語りもやったが、バンド(といっても、本人を含めて3人だが)でやるほうがずっとぼくの好みだった。そこでサポートで付いたベーシストとドラマーもまた普通の青年たち。ぼくが小僧のころ、まずイキがった外見を整え“武装”してからバンド活動に勤しんだものだが。って、オヤジくせえ物言いだな。MCを聞いたらドラマーはヘルツで叩いている人とかで、なら坂田明の息子さんか。なんだかんだで、二世ミュージシャンって本当に多いなあ。


17日(金)


映画「ウェイクアップ! ネッド」、
同「恋はワンダフル」。


 京橋・メディア・ボックス試写室で、続けざまに2本アイルランドを舞台とする映画を見る。まず、「ウェイクアップ!ネッド」(夏、銀座シアトル西友で公開)は大当たり宝くじ券をめぐっての小島に暮らす老人たちの騒動を温かい気持ちと少しのウィットを通して描いたもの。じじいを扱った映画ってあんまり好きくないのだが、これはそれなりの感慨とともに見通せた。人間の所作に対する優しい目が活きていますね。それと、アイリッシュ音楽のうま味を用いた音楽が実に絵と合っていて、それにも感服。最近のなかでは、音楽と絵のかみ合いは一番だと思った。もう一つの「恋はワンダフル」(7月10日、新宿シネマ・タリテ他で公開)は、ボストンで上院議員の秘書をやっているバリバリのキャリア・ウーマンがアイルランドに仕事でやってきたものの、赴いた土地はお見合いパーティの真っ最中(それだけ、男女の出会いが少ないってことかしらね)でもう大変〜、てなラヴ・コメディといっていいのかな。こっちのほうが、一般受けする娯楽度は高いように思われる。でも、ぼくの評価は前者のほうが少し上かな。まあ、どっちせよ、アイルランドの自然や質素な(でも酒付けでもある)生活なんかはばっちり味わえる。見てて、少し自然に囲まれた飾らない生活に憧れたりも。それと、なんかアイルランドってすごく天気悪そうなイメージをぼくは持っていたけど、両方ともけっこう晴れの日のシーンが多かった。実際はどーなんだろ? それにしても、続けざまに映画を見ると、別に内容が混同しちゃうわけではないのだが、すごく原稿書きづらい。ま、あちきのアタマの許容量なんてこんなもんですね。



16日(木)

クリーン・エクスガール・ワンダー

 やっぱ、生は見なくても良かったかな、と。まだ10代の、所謂ベッド・ルーム・ミュージシャンだもの、実演が心もとなくてもしょうがないっていやあ、しゃうがないのだろーな。大学の友達だろうか、4人のサポート・ミュージャンを従えてのステージ。笑えたのはベースが二人いて、全然それが必然性なかったこと。コンサート終了後に飲みながら、日本に行けるゾって素人の友達とか誘ったりして成り行きでそうなっちゃんたんだろーなーなんて話をしたが、まあ仄々としたバカバカしさがあったりして、それはそれで認めよう(つーほどのもんでもないが)。みんな、嬉しそうにやってました。当のクリーン・エクスガール・ワンダーことグラハム・スミスくん、何度も「ロックだあ、おまえらあ」みたいなアジテーションを客に噛ましてくれたけど、その手の衝撃性や爆発感と無縁なことやってんのが笑えた。それ、反語的に発してたら凄いけど、そうじゃなさそうだったのがちと悲しい、かも。そうした、言葉足らずの暖簾に腕押し的な風情、それがレコードだとある種の現代的なはかなさ表出に繋がっていたのだろうか。やっぱ、レコード娯楽って魔法を孕みますね。以上、渋谷・クアトロにて。


13日(日)

藤原清登

 NY在住のジャズ・ベース奏者、藤原清登のソロ・パフォーマンス公演。場所は、上野公園内の奏楽堂で。日本最古の音楽ホールだそうで、風情ある建物。それを聞いて、おっちょこちょいのぼくの興味度数はかなり上がったのだった。藤原の力量は認めるところではあるし。その奏楽堂、かつて壊す壊さないでモメてたときもあったと記憶するが、やはりなかなか上品な建物でした。中はきっちりリフォームされていたりして、それは税金でまかなわれているのだろうな。当然クラシック専門だろうが、普段どのぐらい使っているのだろうか(って、そこにあったチラシとか見れば分かるだろうに。怠惰ねえ〜)。…………。見るにあたって唯一抱いた危惧は、場所が場所だけに、物音一つたてちゃいけない厳粛なノリだったらヤダなということ。だが、それは杞憂でカリカリした雰囲気は皆無。全編、ベースの音は生音勝負の完全アンプラグド。で、弓弾き(だけでもいろいろな弾き方があるんですね)、手弾き、様々な奏法を駆使しながら、藤原は一心同体の存在だろうベースを扱いまくる。生音だから耳に届く音は全然大きくないだが、低い音が出ているゾという感じはよく伝わってきて、ずっとチェロ/生ベースを弾いている人は微妙な周波数振動で、身体が徐々にイカれてきたりすることはないのだろうかともふと思ったりも。やる演目は、オリジナル曲とともにガーシュイン曲や、ビートルズ曲や、エリントン曲やミンガス曲や、プッチーニ曲など。どれもが、藤原のわがままかつ繊細な解釈のもと紐解かれていく。高尚すぎて分からない部分もあったが、やろうとしていたことの60%を理解できたといった感じか。それにしてもチェロって(ヴァイオリンとかもそうだが)、ユーモラスな形をしているナと、ライヴの間じゅう思っていた。ま、木っていいですね。ところで上野の公園内は、ホームレスの人々のテントが沢山。夜の帳が降りた帰り道、その横にけっこうアベックを認めることができて、なかなかシュールな光景であった。


12日(土)

レイク・トラウト

 ジャズ系のグルーヴ・バンド、レイク・トラウト(ボルティモア出身、平均年齢22才とか)をフィーチャーした“オーガニック・グルーヴ”というイヴェントを見るために、夜11時すぎに新宿リキッド・ルームに行く。なんでも、米国ではデッド・ヘッズ(グレイトフル・デッドのおっかけ)〜フィッシュ・ヘッズの流れで、メデスキー・マーティン&ウッド(MMW)やレイク・トラウトのような即興性インスト系バンドも支持を受けているのだという。まあ、確かに去年秋にNYでMMWを見たとき、ケムリもうもうでこりゃあ新種のアシッド・ミュージックとして受けているんだナというのは痛感させられたのではあったけど(でも、客層は小奇麗でした)。まあ、キーワードはクスリですね。とともに、デッドの御大ジェリー・ガルシアはオーネット・コーマンの大ファンだったから、そういう事実から音楽的な繋がりを指摘できなくもないのではあるが。レイク・トラウトの実演は同行DJをまじえてのもの。CDだと底と蓄積の浅いMMWてな感じもある彼らだが、ライヴだともっと広がりと現代性と生々しさが出ていて、かなり楽した。とくにドラマーはバカテクで、今人力ドラムンベースを叩かせたら一番なのではないか。また、見てみたい。フジ・ロックのフィッシュ・ステージの予習みたいな感じで行った、と書くとウソになるが、普通のクラブ・イヴェントっぽい感じもあって少し肩透かしを食らう。このイヴェントをやったところはMMWも呼ぶのだそうだ(8月3、4、5日)。なお、この晩のことはクロスビート誌のコラム頁原稿に纏める予定。内容が重なるといけないので、このへんにしておく。


11日(金)

ステレオフォニックス

 英国ウェールズ出身のトリオ・バンド(半数強の曲ではキーボード奏者がサポートに入る)、ステレオフォニクスを赤坂・ブリッツにて。昨年、彼らのライヴに触れたとき、まず感心したのはフロントに立つケリー・ジョーンズのまっとうな歌声であり、ギター・プレイだった。おお、こりゃホンモノ。前に出ているゾ、と。で、その時ぼくはこうもしっかり思ってしまったのだ。そんなに遠くない将来、彼はソロとして独立しちゃうのではないのか、と。それぐらい、彼だけが突出して見えた。だけど、今回見て思ったのはバンドとしてのステレオフォニックスのまっとうさだった。それはジョーンズくんの存在感が小さくなったというよりは、バンド感の相互関係がより密なものになり、3人の間に張られた見えない糸がオーディエンス側にも提示できるようになったからではないのか。3人の様子を俯瞰しやすい2階席から彼らを見ていたせいもあるかもしれないけど。それにしても、アナクロなバンド。今の流行とかに対する思慮はゼロ。とにかく、おれたちは骨の太い、生っぽいロックを出せればそれでいいんダって感じがバリバリだったもんなあ。彼らに比べりゃ、やはり胸を張った英国アナクロ系バンドたるリーフなんてだいぶ今に対する目配せをしているゾと思わせるもん(どっちがいいとか、悪いとかいうものじゃないです)。客はほぼ満員、反応はなかなか熱烈。ちゃんとファンのついているバンドであるのは一目瞭然。筋肉質のずんぐり君たるジョーンズなんか、どうひいき目に見ても外見的にカッコいいわけではない。英国の若手では、珍しく完全に歌/曲の力だけで勝負し、顧客を獲得しているバンドではないのか。そう、感じた。


8日(火)

クライグ・グレッグソンとブー・ヒューワディン

 南青山のMANDARAで、クライグ・グレッグソンとブー・ヒューワディンの共演コンサート。お客の外国人比率はけっこう高かった。ついでに中身と関係ないこと書いておくと(でも、ぼくにはけっこう大切なことなんだけど)、ここや系列のスター・パインズ・カフェはちゃんとガラスのグラスで飲み物をサーヴしてくれるのが有り難い。ちゃんとワインもボトル売りしてくれるしね(銘柄はさらに研究していただきたいけど)。やっぱ、薄プラステックとガラスじゃ味が違うもん。まあ、ガサツなぼくとしてはコップを落として割りそうという不安はなくはないが。皆さんいろいろ大変ではあるのだろうが、ライヴの場でもガラスのグラスが主という状況にはならないだろうか。別に外国が正しいということは全然ないが、英米でもクアトロ級のハコぐらいなら、ガラス製でサーヴするとこ多いよな。なお、以上は環境/資源問題からの意見ではない。しょぼい使い捨てコップが消費されるよりも、毎回コップを洗う含洗剤の汚水がどんどん流されるほうが、地球にとってみればダメージがでかいのかもしれないし(って、そんなことはないだろうが)。繰り返しになるが、ぼくは出来るだけ美味しく飲みたいということだけなのダ。さて、英国的な襞となにかと直結した音を送り出せるお二人の共演コンサートはやはり英国的質素感や実直さがあふれたものだった。ホント日々まっとうに生きているんだろうなと思わせる、真っ直ぐな歌の気張らない送り出し。英国ではさらにエディ・リーダーを加えて3人で回っていたとかで、二人の息の合い方もばっちり。ただ、清潔すぎというか、綺麗すぎというか。普段もっと泥水のなかでヘラヘラしているような表現、雑音の混ざった音を聞いている者にとってはちょっとそこらへんに不満を覚えたりも。すごくいい人たち(英国的気高さも、皆無?)で、誠心誠意音楽に向かっているのは痛いぐらい伝わってきて、そんな指摘をするのは心苦しいのだけど。牛乳パックや発砲スチロールのトレイとかは面倒くさくてもなるべくスーパーの専用処理箱に持っていって捨てよう、なぞと思いながら聞いてた、ワタシ。


6日(日)


サム・プレコップ。
やはり、現代的快感を孕む。

 ザ・シー・アンド・ケイクの中心人物の、自らの名前を冠したソロ・アルバム『サム・プレコップ』(スリル・ジョッキー)がかなり秀逸な出来だっただけに、そのソロ公演はかなり楽しみだった。青山・CAYにて。海外でもそれなりに評価を受けている日本のグループ、さかなのライヴ(ちょっとミスマッチのブッキングだったのでは。でも、彼女たちを見ていない人にはいい紹介の機会にはなったのか?)のあと、まずシカゴ・アンダーグラウンド・デュオの演奏。といいつつ、その構成員たるドラムスとコルネット奏者はプレコップのバッキングも勤めるため、アコースティック・ベース奏者ほか同じ仲間うちだろう他のプレコップ・バンドのメンバーもいろいろと加わってくるパフォーマンス。ジャズ的な対話法とエレクトロニクス経由音場の拮抗を狙う、そんな感じの内容かな。混沌とした部分はあまりなくて、意外に予定調和っぽいところも。それとロブ・マズレクのコルネットはマーク・アイシャム(彼はトランペットを主に吹くが)ぽいのを確認した。

 そして続いて、プレコップの実演。寒い国で一人知恵の輪遊びを淡々とやっているようなギター弾き語りにジャズ・コンボたるバック陣が寄り添うという行き方だったけど、ぼくは結構CDのそれとは別モノという印象を受けたなあ。だって、プレコップとバンドの間って、けっこう距離があったもの。その点、好プロデュースと言えるだろうジム・オルークの手によるCDではもっと主役とバックの音が巧みに編み込まれていた。たとえば、アルバムではかなり印象的なポイントであるだろうミニマルぽさが実演では皆無(かわりになぜかボサっぽさは増えていた)。だが、それがダメかと言えば、CDで聞けるそれを生で出すのはかなり困難なはずで、その代わりのものとしてはなかなかのものを提出していたようにぼくには思えたのだ。実は、ライヴの途中でぼくはローラ・ニーロのライヴ盤『光の季節(Seasons of Light) 』(77年、コロムビア)を思い出したりもした。あれ、フリーも出来る強面の生ベース奏者リチャード・デイヴィスを含むジャズ/フュージョン系有名人がバックを付けたアルバムだったんだけど、そこでのニーロとの微妙な体温差と距離感を持つ演奏が頭のなかに浮かんだんだよなあ。経歴や好みの音楽などの差異から来るのだろう、見つめる最終地点の微妙なズレ。プレコットのライヴではそれがしっかりとあった。そして、そのちょっとしたズレこそがとってもぼくには魅力的、今っぽく感じられたのダ。立脚する世界の違いが生む、なぜか心地よい歪みや崩れ感。これはもっと今の時代、追求されていいものではないか。そういうのもっと聞きたいし、ぼくがプロデューサーだったら真先にそういうの企画するなあ。たとえば、素養豊かなポップ・シンガーとわがままなジャズ・マン組み合わせて....。もしかするとベックが『オディレイ』でチャーリー・ヘイデン入れてたのもそういう効果を狙って? もしかすると、チボ・マットとか、メデスキー・マーティン&ウッドも道筋は違うものの、そうした差異を巧みに孕んだものと言える? あらら、飛躍しすぎですいません。


3日(木)

我が道をしなやかに、エスピリト。

 友人でもあるセイゲン・オノ(小野誠彦。オランダ人と再婚する。おめでとう)がプロデュースしたエスピリトという日本人グループを見に、南青山のMANDARAに。TOYONOというヴォーカリスト(多くの曲も彼女が作っているよう、歌詞はポルトガル語)にギターとパーカッションの3人組のようだが、それにチェロ、ヴァイオン、ギター奏者なんかが加わり、一部曲ではピアノも入ったりしていた。実は、ライヴでのその編成から出てくる音を聞きながら思ったのは、カサンドラ・ウィルソンのレコード( 『ブルー・ライト』と『ニュームーン・ドーター』) でのそれと似ているかも、ということ。いろんな弦楽器の絡みや打楽器音の間を活かした折り込むようなサウンドを用いているということで。で、カサンドラは子供のころから愛好してきたブルーズやフォーキーなポップに対する“ひっかかり”を特殊編成サウンド経路で花開かせようとしているのに対し、彼女たちはブラジル音楽に対する憧憬を同様の回路で別の世界にいる自分たちならではのものとして浮き上がらせようとしている....そんなふうに思った。最初はヴォーカリスト嬢のお嬢さんぽいノリに波長が合わなかったが、かなり感心できることをやっていると思う。いやあ、困難な道をものともせず、胸の張ったことやろうとしている人っているんだよなあ。地道に自分の信じる道を突き詰めている音楽だけが持つ尊さも漲ってた。偉いっ。今晩の公演もなにかと世間を舐めがちなぼくを自戒させるものだった。アルバムはサイデラ・レコードより発売中。


2日(水)

BIS、
お膳立てをもっとキッチュにしたなら。

 渋谷・クアトロでBIS。この前に来たときは最後のほうしか見れなっかたので、ちゃんと見るのは今回が初めてとなる。まず、確認したかったのは、そのハジけたキャラクターをどうステージ上で巧みに押し出すのかということ。なぜなら、彼らはイメージ創出にかなり成功しているグループだと思うから。それは意識的なものか偶然かは知らないが、ポップ・ミュージックの素敵にまつわる特権をあっけらかんと行使しちゃっているゾと思わすところあるもんな。彼女たちがアメリカではグランド・ロイヤルを通して出されているのも、それがあるからだと思う。ともあれ、本人たちもお客さんも、楽しそうにピョンピョン。たった3人だけでまかなう実演はやはりコツブな印象を与えたりもするが、それは舞台のプレゼンテーションの練り上げ不足もあるかと思う。ステージの後ろをカラフルに装飾するとか、本人たち/および使用楽器をもっと視覚的にアピールするものにするとか、もっとグループのイメージに沿ってデコレイションする手はあったのではないのか。演奏は2枚目のアルバムからの曲だけでなく、新曲も。うち、1曲はミュンヘン詣でしてからのスパークス、もう1曲は2トーン系のナンバーを思い出させるもの。ニュー・ウェイヴ・ポップのキュッチュさを有効活用している3人だが、なるほどいろいろ進み方はありそうねと思う。終演後、ちょっと話したら、日本のあとはオースラリアに行って、チベタン・フリーダム・コンサートに出演するのだそう。



ポール・ブレイは愛の人だった。

 やれ、混んでるとか。空調がトロいだとか。酒の種類が少ないだとか。そんなことが、どーも実演の評価(別にそんなのしなくてもいいんだが。感想、と言ったほうがいいか)に影響しているところはないか。最近、たまァにそういうこと感じたりもするだよな。人間だからしょーがねえんだけど、齢を重ねるにつれ、どんどん我慢すること忘れてきていて。昔だったら、そのアーティストに直に触れられるという期待と感激で食い入るように見るだけだったはずなのに。でも、イヤなことヤだしな。ポリポリ。新宿・ピットインで思索派の巨匠ピアノ、ポール・ブレイを見たのだが、かなり混んでいて(といっても、ギルティとかの小さなロック系のハコの混んでいるときの酸欠必至のそれから見れば楽なもんではあるけど)、最初はなかなかその演奏に入り込めなかった。ピアノの音も普段ロックに慣れている耳には小さなもので、それも災いしていたとも思う。始めのほうは感情移入できなくてビールをちびちび飲んでいた。ところが、20分くらいしだんだん場に慣れてきて、曖昧な言い方になるが、彼の演奏の線のようなもの、その尻尾を掴むのに成功してからは、本当に刺激的な旅が始まった。彼の演奏により、どこにでも連れてかれる快感。いやあ気持ち良くて、一杯お酒注文しちゃったな。今度はどんな道に入るの、その連続。もう、興味深くてしょうがなかった。気儘に弾かれる曲間には、立ってペコリとお辞儀。一切、MCはしないのだが、それもなんかいい味出ていてウフフでしたね。演奏後、地上に出ると(ピットインは地下にあるのだ)、なんと御大がとっくに外に出ていて、囲まれてサインをしている。やはり、彼も愛の人だった。