2001年11月11日(日)

 南海ホークス黄金期のエース、杉浦忠氏が急死

 日本シリーズで読売に苦杯をなめ続けてきた南海が1959年、プロ2年目の杉浦さんの38勝4敗、防御率1.40という驚異的としか言いようのない成績もあってリーグ優勝、日本シリーズでも4連投4連勝という超人的な活躍で読売に4タテを食らわし念願の日本一になったことは、いまだ南海ファンの間ではほとんど神話めいて語り継がれている。杉浦さんの全盛期には年齢的にぼくは間に合わなかったけど、杉浦忠、野村克也、広瀬淑功、皆川睦男といった数々の名選手を擁した往時の南海は、幼いころからのぼくの憧れであり、杉浦さんはその中心にあった。

 立教在学中から杉浦さんは親友である長嶋茂雄とともに南海の世話を受け、ともに仮契約まで済ませていたが、長嶋は最終的に金に転んで読売に入団した(そのころからお得意技だったのだ、金で横面を叩きかっさらっていくやり口は)。ところが杉浦さんは読売に誘われたものの義理を貫き通し、南海に入団した。そして2年目、当時の鶴岡監督への恩義に報いる形で読売を完膚無きまでに叩きのめしたのである。日本一になった感想を聞かれ、杉浦さんは「一人になって静かに泣きたい」と語った。

 南海末期に、杉浦さんは監督となった。2年後ダイエーに身売りされたホークスが大阪から福岡に本拠地を移すさい、杉浦さんは大阪のファンの前で「南海ホークスは永遠に不滅です。これから福岡に行って参ります」と宣言した。杉浦さんはダイエー監督を2年つとめ、低迷の続くチーム再建の目処がたったところで勇退しフロント入り。この当時の杉浦さんを取り巻く環境は、その人の良さを利用されるようなひどいものだったようだ。そしてあとを受けた田淵監督が、せっかく立ち直りかけたチームをめちゃくちゃにして、ダイエー再建はさらに10年後まで持ち越される。結局王監督のもとでダイエーは99年、南海時代以来26年ぶりの優勝を果たした。杉浦さんはホテルのバーでひとり飲みながら喜びをかみしめたという。だが、宿敵読売の4番打者に率いられたチームがあのホークスであるはずもなかったのだ。杉浦さんが「行って参ります」と言ったから、ぼくはずっとダイエーを応援し続けた。だが皮肉にもダイエーが優勝した瞬間、ぼくや杉浦さんが愛し続けた「南海ホークス」はすっかり消えてなくなってしまったことに気づかされてしまったのである。そして帰るべき本拠地であった大阪球場は取り壊され、いまや跡形もない。

 まちがいなく野球史に残る大投手だった杉浦さん。長年バッテリーを組んだ野村克也は、「杉浦を超える投手はいない」と断言した。今では考えられない酷使で選手生命を縮めてしまったが(プロ4年で116勝、その後9年で71勝)、まともであれば当然200勝投手の仲間入りを果たしていたろう。それだけの大選手でありながら決しておごり高ぶることない、心優しい温厚な紳士であり人格者だったという。一度も激昂することなく、監督時代も決して選手を必要以上に責めることはなかった。杉浦監督で優勝を、というのは南海ファンの誰もが持っていた夢だった。福岡ドームのグラウンドで胴上げされるかっての読売の4番打者の姿を見て、あそこには栄光のサブマリン・背番号21番がいるべきだと感じたのは、ぼくだけではないはずだ。

 誰よりも南海ホークスを愛し、他のユニフォームを着ることなく南海ホークスに殉じた大エース、そして最後の南海ホークス監督、杉浦忠。さようなら。あなたこそが、ミスター・ホークスと呼ばれるにふさわしい。もう本当に、南海ホークスの時代は終わってしまったんだな。