18日(金)

 いまうちの同居人は、小学校の同窓会の幹事をやることになって、あちこち奔走している。地元は西武線の江古田で、小学校から中学校まで9年間過ごしたらしい。それに対してぼくは中学校、高校こそ3年間同じだったが、小学校は父の仕事の関係もあり、6年で6回変わった。1年に1回は転校していたわけで、当然人格形成には大きな影響があったはず。そういう環境で育つとすごく外向的になるか内向的になるかどっちかだというが、ぼくは明らかに後者である。内向的というか、人見知りするという方が正しいかもしれない。まぁ社会人になって20年もたてば、最低限の人付き合いは否が応でも覚えるが、それでも愛想がいいと言われたことは、自慢じゃないが1回もない。

 ただそれ以上に転校の繰り返しがぼくの人生観に大きな影響を及ぼしたことといえば、おそらく友だちの作り方だろう。最初のとっつきが悪くても、ある程度お互いのことがわかれば気の合う友だちもできる。だが小学校のころはそうやって慣れて友だちができるころにはまた転校、を繰り返してきたため、どうも友だちづきあいがその場限りになってしまうことが多い。どうせ仲良くなってもすぐ別れなければならないし、いつまでも前の友人関係にこだわっていたら、新しい環境に慣れることもできなくなる。そんな心理が働くのか、転校を繰り返すたびに友だち関係をリセットして一からやり直すことを繰り返してきたため、中学、高校、大学と進んでも、環境が変わるたび交友関係が一新される。つねに身近にいる人間関係ばかりに気が行ってしまい、古い交友関係に対して関心がなくなってしまうのだ。だからぼくが友だちづきあいする相手は、つねにその都度近い環境にいる人ばかりである。高校生のころなら高校の同級生だけ、大学時なら大学の同窓だけ。前の環境の友人とはばったりつき合いが途切れてしまう。正直言って小学校の友人で現在までつき合いのある人は一人もいないし、それどころか名前や顔を覚えているのも2,3人しかいない。中学校では2〜3人、年賀状をやりとりするぐらいの仲の友人はいるが、高校ではゼロである。大学時代は友だちに恵まれたとは思うが、コンスタントにいまでも交友が続いているのは2〜3人だけだ。


 小中高校の同窓会がいまでもあるのかどうか知らないし、もし誘いがあってもほとんど覚えがない人たちばかりだから、おそらく出席しても話が全然合わないと思う。もちろん懐かしく思う気持ちがないわけじゃないが、共通の話題がむかしのことしかないところに、無理矢理話題を作って会話を成立させるのも面倒くさいし、かといってこっちの近況を一から説明するのも骨だなぁと思ってしまう。

 同居人は9年間ほとんど同じ顔ぶれと過ごしただけあって、同窓生のことはほとんど覚えているらしいし、いまでも頻繁に友だちづきあいしているようだ。それがうらやましいと思うこともあるが、いつまでも過去にとらわれるようでわずらわしいんじゃないかという気持ちの方が強いのだ。社会に出てからは多少友人関係も長続きするようになったし、いつか日記にも書いたように、フリーになってからもつき合いの続く会社員時代の友人もたくさんいる。でも基本的なところはあまり変わっていない。ぼくの意識はつねに現在にしか向いていないのだ(そういうとエラくかっこよく聞こえるが)。そして、おそらくそれは人間関係だけでなく、仕事の仕方や音楽の聞き方にも繋がっているような気がする。