2000年10月1日(日)

 吉祥寺の喫茶店で、あぶらだこの取材。この時代の人に取材するときはいつも必要以上に緊張してしまう。受け答えはヒロトモ氏が主にしてくれたが、どこまで本気なのか判断に迷うような話の内容だった。話しぶりはきわめて温厚かつ礼儀正しいものだったが、その奥には得体の知れないものを秘めている……ようにも見えるのはやっぱり気のせい? ともあれ新作『月盤』は、前作『釣り盤』をはるかに上回る大傑作である。

 中村一義が、自作『ERA』に関する『スヌーザー』誌の妄想的解釈に怒り、同誌に決別宣言したことが話題になっている。中村のコメントはここで読める
 単行本『音楽ライター養成講座』のぼくと広瀬陽一さんの対談で話題に出た“「妄想系」雑誌の筆頭スヌーザー”の面目躍如(?)たる事件で、不謹慎ながらヤジ馬的に面白がってしまったのだが、そうそうヘラヘラもしていられない。
 スヌーザーの当該記事は読んでいないし、論評できるほど中村のアルバムを聴き込んでいるわけではないから直接的なコメントは避けよう。おおむね中村の決断に対して好意的な声が多いようだし、中村の真摯さも了解できるが、ライターの立場からはまた別の思いもある。
 ぼくが言えるのは、ライターは最終的にアーティストを納得させるのではなく読者を納得させるために書いているということ。そして、不特定多数に向かって作品を発表するということは、多少の誤解や曲解を覚悟のうえでなされるべきではないか、ということである。そしてなにより、アーティストの本質について一番理解しているのはアーティスト本人とは限らない、ということだ。つまりアーティストがライターの文章などについて「誤解だ」「妄想だ」「曲解だ」と感じたとしても、実はそれこそがアーティスト本人も気付いていない彼の本質だった、というようなケースは決してありえないことではない、ということ(今回がそうだと言ってるんじゃないよ。あくまでも一般論としてね)。もちろん、その意見に対してアーティストが怒り、取材拒否をするのは自由。そして、事実関係の誤りとか捏造とか明らかな名誉毀損とか業務妨害とか、そういう内容でもない限り、書くのも自由である。そのどちらの言い分が正しいか、あるいは自分の感じ方に合うか、それを判断するのは読者である。
 今回の事件がどのように収束するのかわからないが、アーティストの発言こそがとにかく一番エラくて正しいのであって、それ以外はすべて蛇足、クズというような風潮がまかり通ってしまうことをぼくは危惧する(すでにそうなってるか)。ライターや評論家がどんなに精魂込めた優れた文章でもアーティストの何気ない一言でたちまち無意味化してしまうなんて、我慢ならない。もちろんそんなことにならないような強度の評論をモノにするのがわれわれのやるべきことなのだが、愚にもつかないプロモーション・トークや、プロ意識のかけらもないやる気なしの受け答えを繰り返すようなインタヴューなんかより(繰り返すが、中村一義がそうだと言ってるんじゃないよ)、ライターの鋭い文章の方がはるかにその音楽の本質を抉っていることは、ままあるはずなのだ。ライターはアーティストの言い分をそのまま伝えるだけのメッセンジャーではないし、そうあってはならない。

 ……というようなことを話すことになるのかどうかわかりませんが(笑)、「音楽ライター養成講座・居酒屋編」、2日(月)午後7時から、新宿歌舞伎町・ロフトプラスワンでやります。詳細はここ。お待ちしてます!